
2009年10月23日、上野の西洋美術館の古代ローマ帝国展を観る(写真)。初代皇帝アウグストウスの時代と業績に焦点をあて、「栄光の都ローマ」と「悲劇の街ポンペイ」に関する117点が展示されている。BC1世紀からAC2世紀かけて最大両国をイギリス、ベルギーから北アフリカまで拡大した帝国のエネルギーが溢れている。「第一章帝国の誕生」には、大理石の胸像、皇帝の頭部、ブロンズの胸像「第二章アウグストウスの帝国とその機構」には柱としての大理石の女性像、ブロンズに金箔の女性の足、フレスコ壁画の数々、白大理石の男性像、ガラス球の骨壷、「第三章帝国の富」にはアウグストウスの金貨や銀貨、ポンペイの居酒屋出土の金貨、ブロンズの精緻な彫刻を錘とした秤、銀器、真珠の首飾りや耳飾り、エメラルドに金を装飾した首飾り、双頭の蛇の指輪、ブロンズのランプ、鉛とブロンズの水道弁、鉄の鍬、鉄の庭鋏、ポンペイから出土した庭園の風景の多色の壁画などの展示を観る。日本の弥生式時代の世界である。土中や灰燼の中から発掘された展示物は造られたばかりの新しさがあり、その芸術性もロダンの彫刻に遜色がない。ポンペイの庭園の壁画から推測される生活ぶりは現在の地中海の別荘と大して変らない。この2000年の時間が圧倒的に圧縮されタイムマシンの世界に浸る。人間はこの2000年間の間に、少なくとも文化芸術の領域では進歩していないとすら思った。カルチャーショックのひと時であった。
秋気満つ古代ローマの蛇指輪
8月21日、武田氏研究会「夏草道中」で京都の京田辺市にある穴山梅雪の墓を訪ねる。共同墓地の中に五輪塔があるが、正確には五輪塔の「火輪」の代わりに宝篋印塔の「笠」が載る両者を合わせた墓石である(写真)。梅雪は武田氏の親類衆として信玄の時代、大いに活躍するが、勝頼の代になり武田家が衰退すると信長、家康と密かに通じ、天正10(1578)年2月、織田・徳川軍による武田領侵攻が始まると、同25日には甲府に居た正室見性院と嫡男勝千代を脱出させ勝頼を離反する。甲斐は混乱に陥り、勝頼は3月11日に滅亡する。織田家臣となった梅雪はお礼に家康とともに、5月15日安土城に信長を訪れた。信長は明智光秀にその接待役を命じ、豪勢な接待を行った。6月2日に信長と合流し茶会を催すことになり、その間各地を遊覧し、5月29日に堺に入る。6月2日早暁、本能寺の変が起きる。この変を知った家康と梅雪は急遽帰途につく。家康と別の道を選んだ梅雪一行は落人狩りの標的にされ落命する。享年42歳であった。現地の看板資料によると、梅雪は田辺町内で殺害され、地元の人たちにより手厚くここに葬られた。
梅雪の正室は武田信玄三女の見性院で、二代将軍秀忠の三男幸松丸を育てた。後に幕臣として、また会津藩祖として名君の誉れの高い保科正之である。墓は埼玉東浦和の清泰寺にある。夭折した勝千代の墓は山梨の下山町円蔵院、穴山家の菩提寺万福寺は韮崎にある。いずれにも私は墓参し、梅雪一族には心を尽くしたことになる。

空蝉の宿る五輪の塔崩れ
梅雪の正室は武田信玄三女の見性院で、二代将軍秀忠の三男幸松丸を育てた。後に幕臣として、また会津藩祖として名君の誉れの高い保科正之である。墓は埼玉東浦和の清泰寺にある。夭折した勝千代の墓は山梨の下山町円蔵院、穴山家の菩提寺万福寺は韮崎にある。いずれにも私は墓参し、梅雪一族には心を尽くしたことになる。

空蝉の宿る五輪の塔崩れ

8月20日、私は新府城から天目山までの「武田勝頼・落人の道」を車でたどる旅に出た。予め勝頼一行が歩いた場所を調べておき、可能な限り探して走ることにした。
天正九(1581)年2月15日新府j城の築城開始・天正九年121月24日甲府躑躅ケ崎から韮崎新府城に勝頼は移る・天正十(1582)年1月27日、親類衆木曽義昌が信長に通じ謀反・2月19日勝頼夫人は武田八幡神社に「霊通力をもって夫勝頼を勝たせ給え」と涙ながらの願文を奉納する。心打つ長文である・2月27日親類衆穴山梅雪、徳川家康に降る・3月2日織田軍により信州高遠城落城・3月3日勝頼自ら新府城に火をつけ、親類衆小山田信茂を頼り岩殿山城を目指す・3月3日夜、勝沼大善寺に宿泊・駒飼で3月9日まで信茂を待つ・信茂の裏切りを知り駒飼を発ち10日夜水野田に宿泊・11日勝頼37歳、信勝16歳、夫人19歳、自刃。
私は新府城を出て勝頼一行が通過した光明寺、北下条、相岱を確認し、夫人が炎上する新府城を見て涙を流したという「涙の森」に着く。夫人の詠んだ歌碑がある。
うつつにはおもほえがたきこのところ 仇にさめぬる春の夜の夢
「涙の森」から甲府方面に少し進むと、煙が上がる新府城を振り返った「回看塚」があり夫人の歌碑がある。
春がすみたちいづれどもいくたびか あとをかへして三日月の夜
さらに先の、下今井に行くと高さ4m幅3mほどの「泣き石」がある(写真)。夫人はここでも新府城を振り返り涙を流したという。
甲府に入り、勝頼が立寄った信玄の異母兄弟の武田信龍屋敷跡に行くと、コンビニの駐車場に標柱があるのみであった。勝頼はすでに甲府は危険であることを諭され、休息もそこそこにして先を急いだのであった。ここで私は時間切れとなり、甲府ー天目山は次回に持ち越すこととなる。
炎える城振り返る森赤蜻蛉

7月16日、東京国立近代美術館にゴーギャン展を妻と観に行く。東京駅から皇居のお堀端を走るシャトルバスの車窓は魅力的で、時間的にも早く、しかも無料なので地下鉄で竹橋まで行くよりは楽しい。目的は「自分は何処から来たのか・我々は何者か・我々は何処に行くのか」を観ることである。第一章から第三章までに53点が展示されている。海外、国内の美術館で観た作品も少なくないが、これほど一同に会したゴーギャンの作品は初めてでその魅力を堪能する。第一章「野生の開放」は株式の仲買人で成功したゴーギャンが、印象派の画家たちに刺激され34歳で画家として生きることを決意する。ゴッホと共同生活をしたアルルや、ブルターニュ地方に「楽園」を求めた、タヒチ以前の作品が13点ある。いずれも人間の内面の孤独を感じさせる。第二章「タヒチへ」は熱帯の楽園を求めて南太平洋のタヒチにアトリエを構え制作した作品33点がある。油彩と連作版画である。「かぐわしき大地」ではタヒチの女とイブを重ねている。マリオの神々や、タヒチの闇の深さを描いた「悪霊の日」、死と胎児を一体化した「死霊が見ている」万物を再生させる月の神ヒナを描いた「感謝」など宗教的、哲学的描写の作品が並ぶ。第三章「漂泊のさだめ」には7点展示されその一枚が「我々は何処から来たのか・我々は何者か・我々は何処に行くのか」である。一旦パリに戻ったゴーギャンは、再度タヒチに来るが、病魔、貧困、愛娘の死という不幸お運命を呪い、精神的な遺言としてこの大作を制作した。右側に生まれた文字色ばかりの赤子、中央にイブと重ねた林檎を捥ぐタヒチの成熟した女、左側に老婆を配している。人間とは何ぞや、と問いかけている。この絵にたどり着く第一章からの作品群は振り返って観ると、人間の不安、孤独、空虚をぶれることなく描いているように思えた。未開の地を求め続けたゴーギャンは、1901年、タヒチから千数百km離れたマルキーズ諸島に移住し、漂泊の人生を閉じた。
上野の西洋美術館に寄り、数多くの画家と数多くの作品を鑑賞した。ゴーギャンの重みのある人生を観賞した後なので分散型展示を気楽に楽しむことが出来た。常設館は、65歳以上は無料なので夫婦でその恩恵を受けたためかもしれない。

4月21日、私は会津若松に旅をし、飯盛山を訪れる。16歳から17歳の少年たちの、周辺の武家屋敷が焼けるのを見て鶴ケ城炎上と思い込み自刃した現場に立つと胸を締め付けられる思いがする。白虎隊は343名で編成され、戦死者33名、自刃20名、生存者290名と、隊士の15%が落命した。20名の自刃の隊士中、飯沼定吉は短刀で喉を突いたが死に切れず印出新蔵の妻ハツに助けられ蘇生する。後に仙台で逓信省技師となり逓信事業に貢献した。白虎隊については生涯語ることなく、特定の史家に残した実録によって後世にその悲劇を伝えた。白虎隊だけではない。娘子軍隊長中野竹子は得意の薙刀を振るい奮戦したが倒れ、妹の手により介錯されて果てた。籠城婦人隊の山本八重は砲術を駆使し防戦し、生き延び、後に新島譲夫人となり近代日本婦人の先駆けと言われた。家老西郷頼母の妻八重子は子女が戦闘の足手まといになってはならないと考え、母、子女らと自刃した。女性たちも夫々、忠誠を尽くした。
飯盛山に、「忠孝両全碑」が建つ。武田信玄の息女の見性院に育てられた保科正之が信濃の高遠から、山形を経て会津に入り、徳川宗家に対する「絶対忠節」「文武両道」「尊王愛国」を会津藩の伝統精神と定め、幕末の戊辰戦争までその精神が浸透していたことが「会津戊辰戦争」で理解できる。
下野街道に、保科正之が参勤交代で江戸に向かう途中立ち寄り、昼食をとった本陣が復元されていた(写真)。
白虎隊自刃せし地に桜散る





