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武田氏と深谷周辺の武将8  甲源一刀流

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前報で信玄の「秩父侵攻」について述べたが、これより遡る時代に甲斐から「秩父へ逃避」し、一族が剣の道でその名を馳せた武田氏武将がいた。小鹿野町の高源院開基の武田家臣逸見氏である。逸見氏は甲斐武田氏と同族で、代々甲斐に済んでいたが、若狭守逸見義綱が、信虎の拠点の石和から甲府の躑躅が崎に移動に対し、信虎と対立し、大永年間(1521-1528)に武蔵国両神村小澤口(小鹿野町)に移り、住んだ。なお、信虎が拠点を永正16年(1519)に、石和・川田から甲府・躑躅が崎へ移し、昨年で丁度5百年となり、甲府では多くの関連シンポジウムなどが開催された。
 江戸時代後期、逸見家25代逸見太四郎源義年は、剣の道を磨き、流派を立てて、自らの出身血族である甲斐源氏にちなみ「甲源一刀流」とした。義年は高原院の近くに「燿武館」という道場を建て門弟の指導をし、流派を後世に伝えた。逸見義年の弟子、比留間与八は、甲源一刀流の達人として知られ、幕末の3剣士の一人に挙げられる。与八の子比留間半蔵は八王子千人同心の剣術を指導し、甲源一刀流の名を高めた。甲源一刀流逸見義苗の弟子、強矢良輔も達人として知られ、紀州藩附家老水野家の剣術指南役となり、合わせて江戸で道場を開く。また、中里介山の小説「大菩薩峠」で、主人公机龍之介が甲源一刀流を習得し活躍する。全国的に有名になった流派で、多いときは門弟が全国で2千人を超えたという。
 燿武館(写真:クリックで拡大)では、現在も逸見氏が甲源一刀流9世として、甲源一刀流の指導が行われている。道場は稽古場が10坪、控室が2.5坪の広さで、目の高さには窪みが残っている。「突き」の名門といわれた激しい稽古の跡である。道場は江戸時代の道場建築として埼玉県史跡として指定されている。また、毎年の小鹿野春祭では、小鹿神社で甲源一刀流奉納演武が行われえている。

             >道場に 突きの跡あり 風薫る


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武田氏と深谷周辺の武将7 信玄焼と秩父侵攻

>044信玄焼⓵
2008年12月6日付朝日新聞埼玉版に「戦国期の城跡か・小鹿野武田軍侵攻の避難所?」の記事が載る。三国同盟破綻の翌年の永禄12年(1569)から、北条氏康が没し甲相同盟が復活する元亀2年(1571)末にかけて行われた武田氏の秩父侵攻に伴う「信玄焼」の避難所であったと地元の歴史家は仮設をたてている。城跡は小鹿野町両谷にあり、いくつかの堀切の遺構がある。近くには武田氏により滅ぼされた地元の豪族奈倉氏の屋敷跡がある。再び甲相同盟が締結されるまでの3年間、両者は駿河、伊豆、武蔵で抗争を繰り広げた。武田氏は文書で確認できるだけで5回、秩父侵攻を行っている。1回目は三国同盟破綻の翌年の永禄12年(1569)6月下旬から7月上旬に、舘澤、三山(いずれも小鹿野町)、2回目は永禄13年2月から3月頃、高源院(小鹿野町飯田)、3回目は、元亀2年(1571)2月27日に石間(秩父市吉田石間)、4回目は同年7月下旬北条方の日尾城(小鹿野町飯田)で戦闘があった。この期間、信玄は駿河方面で軍事活動を展開していたので、譜代家臣の内藤修理、浅利信種が箕輪城(高崎市箕郷町)に在城し、対武蔵の指揮をとっていた。この4回の戦闘はいずれも小鹿野町と秩父市吉田の6㎞内の距離で行われている。箕輪城から志賀坂峠や士坂峠を越えて侵入すると、最前線がこの地域となる。5回目の秩父侵入は信玄本人が参陣している。元亀2年(1571)9月21日以前に、信玄は榛沢(深谷市)に侵入布陣し、26日までには鉢形領と深谷上杉領の地を「荒所」とし、27日には秩父に布陣している。10月12日の信玄文書に「藤田(寄居)、秩父、深谷「耕地薙捨」「厩橋放火之事」などの軍事活動を実施している。この5回にわたる秩父侵入では、北条軍と激しい戦闘はなく、田畑を荒らす「耕作薙捨」「放火」人さらいや略奪の「人民断絶候様及行」といった作戦が主体であった。秩父郡には「信玄焼」により焼失した寺社は、秩父神社をはじめとして二桁を越える(秩父 光正寺の信玄焼の碑・クリックで拡大)。

      足埋まる落ち葉踏みゆく砦跡

武田氏と深谷周辺の武将6 信玄の関東進出と深谷上杉氏(2)

032展望台
武田・北条・今川の三国同盟は信玄が永禄11年(1568)年に駿河侵攻・占領によって崩壊した。深谷周辺での武田氏の挙動は、それまでの北条氏との同盟関係と打って変わり、敵対関係となった。武田軍は、永禄12年(1569)9月。西上州から武蔵国へ侵攻し、北条氏の御嶽城(児玉郡神川町・写真クリックで拡大)を、ついで鉢形城(寄居町)を攻撃する。城主北条氏邦は防戦に努め上杉謙信の救援を待った。三国同盟破綻により北条氏は越後上杉氏と同盟を結んでいた。この戦いで、深谷上杉8代憲盛は,鉢形城救援に駆けつけている。憲盛は越相同盟の中で謙信に従属していた。一方武田軍は、鉢形城を威嚇した後、北条氏照居城滝山城(八王子市)を攻め。同年10月1日から4日まで小田原城を包囲し、城下に放火して撤退する。武田軍はその帰路、三増峠(神奈川県愛川町)で北条軍と戦い、大勝する。この戦いで深谷上杉憲盛軍は北条氏2万の軍に加わり、武田軍と戦った。永禄13年2月には、武田軍は児玉方面に出撃し鉢形城北条軍と戦い、同年6月には北条領御嶽城付近を手に入れる。同年3月には北条領上泉城主(前橋市上泉町)大胡信綱(上泉伊勢守信綱)が深谷城に立ち寄り、謙信に太刀一腰を贈っている。信綱は後に箕輪城(高崎市箕輪町)に仕え、箕輪城が信玄により落城した折、信玄は家来になるよう勧めたが拒否し、剣の道を選んだ。元亀2年(1571)1月、北条方深沢城(御殿場市)を金堀衆を使い本丸近くまで横穴を掘らせて開城を促し、16日に北条氏綱は武田軍に城を明け渡し、退却した。この時の有名な矢文の中に「・・沼田、厩橋、深谷、藤田の民家を一宇残らず焼き払って引き揚げた・・」とある。元亀2年10月、北条氏康が没し、4代氏政が家督を継ぐと越相同盟を破棄し、再び武田と手を結び同年12月、甲相同盟を締結する。深谷上杉氏は依然として謙信方について武田・北条方と敵対することになった。

       春北風(はるならい) 本丸跡に 松騒ぐ

武田氏と深谷周辺の武将5 信玄の関東進出と深谷上杉氏(1)

武蔵松山城
甲相駿三国同盟は、武田信玄・北条氏康・今川義元の合意による同盟で「善徳寺(富士市)の会盟」とも言われる。武田は信濃、北条は関東、今川は三河攻略の思惑があり、強固な同盟関係が天文14年(1545)から永禄11年(1568)までの14年間続く。前報で述べたように上杉憲政から関東管領を譲渡された上杉謙信は、永禄3年(1560)に関東に入ると、深谷上杉氏など多くの武将が従う。永禄4年(1561)11月、北条氏政は3万騎で上杉方太田資正が城主の松山城(比企郡吉見町)を攻撃し、翌5月には再度攻撃するがこの時三国同盟友の武田信玄に援軍を依頼する。信玄は2万5千騎を従えて11月に松山城(写真:三の郭と四の郭の間の空堀 クリックで拡大)に着き北条軍と合流する。両軍合わせて5万6千が城を囲み攻撃するが落ちない。そこで信玄が用いた作戦は地元でいう「信玄のもぐら作戦」で甲斐から甲州金山金堀宗を呼び寄せ側面から掘削し城に迫った。城は凝灰岩上にあるので掘削し易い。隣の「吉見の百穴」」を見て思いついたのかもしれない。北条軍紀によると櫓2基を掘り崩したとある。城兵たちは浮足立ち、連合軍は総攻撃を仕掛けたので降伏した。
 永禄6年12月5日には、信玄は氏康とともに上杉方由良成繁の金山城(太田市)を攻めている。永禄8年(1565)2月ごろまでは憲盛は謙信に従っていたがこの頃から北条方に従っていた。
 永禄11年(1568)に信玄の駿河・占領により三国同盟は破綻し、越相同盟が結ばれ、信玄は北条氏と敵対する。深谷上杉憲盛は越相同盟の中で謙信に属していた。
 三国同盟時代の深谷周辺における信玄の動向の一例を述べた。次回は三国同盟崩壊ごの信玄の動向について述べる。

         百穴を見しか信玄雲の峰

 

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武田氏と深谷周辺の武将4 甲斐源氏武田氏と関東管領上杉氏

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