8月21日、武田氏研究会「夏草道中」で京都の京田辺市にある穴山梅雪の墓を訪ねる。共同墓地の中に五輪塔があるが、正確には五輪塔の「火輪」の代わりに宝篋印塔の「笠」が載る両者を合わせた墓石である(写真)。梅雪は武田氏の親類衆として信玄の時代、大いに活躍するが、勝頼の代になり武田家が衰退すると信長、家康と密かに通じ、天正10(1578)年2月、織田・徳川軍による武田領侵攻が始まると、同25日には甲府に居た正室見性院と嫡男勝千代を脱出させ勝頼を離反する。甲斐は混乱に陥り、勝頼は3月11日に滅亡する。織田家臣となった梅雪はお礼に家康とともに、5月15日安土城に信長を訪れた。信長は明智光秀にその接待役を命じ、豪勢な接待を行った。6月2日に信長と合流し茶会を催すことになり、その間各地を遊覧し、5月29日に堺に入る。6月2日早暁、本能寺の変が起きる。この変を知った家康と梅雪は急遽帰途につく。家康と別の道を選んだ梅雪一行は落人狩りの標的にされ落命する。享年42歳であった。現地の看板資料によると、梅雪は田辺町内で殺害され、地元の人たちにより手厚くここに葬られた。
梅雪の正室は武田信玄三女の見性院で、二代将軍秀忠の三男幸松丸を育てた。後に幕臣として、また会津藩祖として名君の誉れの高い保科正之である。墓は埼玉東浦和の清泰寺にある。夭折した勝千代の墓は山梨の下山町円蔵院、穴山家の菩提寺万福寺は韮崎にある。いずれにも私は墓参し、梅雪一族には心を尽くしたことになる。

空蝉の宿る五輪の塔崩れ
梅雪の正室は武田信玄三女の見性院で、二代将軍秀忠の三男幸松丸を育てた。後に幕臣として、また会津藩祖として名君の誉れの高い保科正之である。墓は埼玉東浦和の清泰寺にある。夭折した勝千代の墓は山梨の下山町円蔵院、穴山家の菩提寺万福寺は韮崎にある。いずれにも私は墓参し、梅雪一族には心を尽くしたことになる。

空蝉の宿る五輪の塔崩れ

8月20日、私は新府城から天目山までの「武田勝頼・落人の道」を車でたどる旅に出た。予め勝頼一行が歩いた場所を調べておき、可能な限り探して走ることにした。
天正九(1581)年2月15日新府j城の築城開始・天正九年121月24日甲府躑躅ケ崎から韮崎新府城に勝頼は移る・天正十(1582)年1月27日、親類衆木曽義昌が信長に通じ謀反・2月19日勝頼夫人は武田八幡神社に「霊通力をもって夫勝頼を勝たせ給え」と涙ながらの願文を奉納する。心打つ長文である・2月27日親類衆穴山梅雪、徳川家康に降る・3月2日織田軍により信州高遠城落城・3月3日勝頼自ら新府城に火をつけ、親類衆小山田信茂を頼り岩殿山城を目指す・3月3日夜、勝沼大善寺に宿泊・駒飼で3月9日まで信茂を待つ・信茂の裏切りを知り駒飼を発ち10日夜水野田に宿泊・11日勝頼37歳、信勝16歳、夫人19歳、自刃。
私は新府城を出て勝頼一行が通過した光明寺、北下条、相岱を確認し、夫人が炎上する新府城を見て涙を流したという「涙の森」に着く。夫人の詠んだ歌碑がある。
うつつにはおもほえがたきこのところ 仇にさめぬる春の夜の夢
「涙の森」から甲府方面に少し進むと、煙が上がる新府城を振り返った「回看塚」があり夫人の歌碑がある。
春がすみたちいづれどもいくたびか あとをかへして三日月の夜
さらに先の、下今井に行くと高さ4m幅3mほどの「泣き石」がある(写真)。夫人はここでも新府城を振り返り涙を流したという。
甲府に入り、勝頼が立寄った信玄の異母兄弟の武田信龍屋敷跡に行くと、コンビニの駐車場に標柱があるのみであった。勝頼はすでに甲府は危険であることを諭され、休息もそこそこにして先を急いだのであった。ここで私は時間切れとなり、甲府ー天目山は次回に持ち越すこととなる。
炎える城振り返る森赤蜻蛉

4月21日、私は会津若松に旅をし、飯盛山を訪れる。16歳から17歳の少年たちの、周辺の武家屋敷が焼けるのを見て鶴ケ城炎上と思い込み自刃した現場に立つと胸を締め付けられる思いがする。白虎隊は343名で編成され、戦死者33名、自刃20名、生存者290名と、隊士の15%が落命した。20名の自刃の隊士中、飯沼定吉は短刀で喉を突いたが死に切れず印出新蔵の妻ハツに助けられ蘇生する。後に仙台で逓信省技師となり逓信事業に貢献した。白虎隊については生涯語ることなく、特定の史家に残した実録によって後世にその悲劇を伝えた。白虎隊だけではない。娘子軍隊長中野竹子は得意の薙刀を振るい奮戦したが倒れ、妹の手により介錯されて果てた。籠城婦人隊の山本八重は砲術を駆使し防戦し、生き延び、後に新島譲夫人となり近代日本婦人の先駆けと言われた。家老西郷頼母の妻八重子は子女が戦闘の足手まといになってはならないと考え、母、子女らと自刃した。女性たちも夫々、忠誠を尽くした。
飯盛山に、「忠孝両全碑」が建つ。武田信玄の息女の見性院に育てられた保科正之が信濃の高遠から、山形を経て会津に入り、徳川宗家に対する「絶対忠節」「文武両道」「尊王愛国」を会津藩の伝統精神と定め、幕末の戊辰戦争までその精神が浸透していたことが「会津戊辰戦争」で理解できる。
下野街道に、保科正之が参勤交代で江戸に向かう途中立ち寄り、昼食をとった本陣が復元されていた(写真)。
白虎隊自刃せし地に桜散る

5月4日私は秩父郡小鹿野町の甲源一刀流逸見氏練武道場「耀武館」を訪れる(写真)。甲源は甲斐源氏の略である。秩父逸見氏の祖先は清和天皇6世の子新羅三郎義光で、代々甲斐に住んでいたが、大永年間(1521−28)に十世逸見若狭守義綱がこの地に移住した。十九世逸見太四郎義年が剣の技を磨き、甲源一刀流と名付け開祖となる。現在の逸見氏26世の御当主は、また甲源一刀流剣術九世に当り、道場主として少年剣士を育てている。義網が大永年間に秩父に入ったのは、武田信虎が石和川田館から甲府躑躅ケ崎に居館を移したことによる諍いによると伝わる。道場の近くに逸見氏の菩提寺高源院があり、御住職にお聞きすると、武田氏制札などの武田氏関連の寺伝が少なくないし、逸見氏一族も秩父地方を中心に多く分散して居住しているという。
江戸時代から続く道場には、竹刀で突かれた窪みが板壁に残り、当時の稽古の激しさを知る。多くの剣豪も生み出し、最盛期には三千人を超す門弟が関東各地で活躍していた。資料館にはその歴史を示す資料の中に、片岡知恵蔵が机龍之介を演じる大菩薩峠の映画のポスターがある。机龍之介のモデルはここ耀武館の高弟をモデルにし龍之介の「音なしの構え」は甲源一刀流であった。
新緑の秩父に見つけし甲斐源氏

5月12、13、14日、佐渡を旅し、佐渡金山を訪れる。佐渡金山は平成元年までの約四百年間で産金量78トン、銀2300トン、銅5400トンの日本最大の金銀山である。江戸時代には天領として幕府の財政を支えた。天領となる前は上杉氏、その前は本間氏の所領であった。天領となり佐渡奉行所が相川に置かれ、初代奉行として大久保長安が鶴子銀山から相川の奉行所に陣屋を移し本格的な開発を行う。私たちは宗太夫間歩の蟻の巣のような坑道の一部を散策する。現在、奉行所が復元されているが(写真)精錬所を持つ我が国唯一の奉行所であった。長安は金鉱開発とともに、鉱山都市相川の建設や流通などの仕組みを構築し飛躍的に産金量を伸ばした。この長安は甲斐武田信玄に仕えた猿楽師でありながら蔵前衆として治水、農政、鉱山開発で敏腕を振るった。武田家滅亡後、家康に仕え
佐渡金山奉行、石見金山奉行となり後に老中にまで昇進する。佐渡に能楽が広まったのは流刑された世阿弥の影響もあるが、長安が猿楽師を連れて来て広めたことが大きい。私たちが泊まった相川のホテルの近くにも、長安の寄進した春日神社に能舞台がある。全島に能舞台が30余今もあり、保存会の人たちにより薪能などが開催されている。
長安の後の鎮目惟明は名奉行として知られている。長安没後衰退した金山を復興させた。車窓から下相川吹上浦の浜に眠る自然石塔婆を見る。鎮目は甲斐春日居の生まれで武田氏家臣であった。後に家康に仕えて関が原の戦いに秀忠の陣につき、真田攻めの7本槍の一人である。
日蓮は遠流により50歳から53歳まで佐渡で過ごし、鎌倉に戻った後、甲斐武田氏一族南部氏の庇護で身延山を開山し日蓮宗総本山とする。身延山で54歳から8年過ごし61歳で入寂する。私たちは根本寺、妙照寺、実相寺を廻る。
佐渡に、甲斐武田氏の関連人物三人が存在し、私の旅をより印象的にしてくれた。
新樹燃ゆ佐渡金山の四百年






