私の故郷は山梨である。幼い頃、戦国随一の強固な軍団や信玄堤などの民政を大人たちは話してくれた。サラリーマンとなり、各地の武田一族の史跡を訪ね、その歴史と浪漫を探る紀行文である。
風林火山の旗 海を渡る
信玄焼
2008-12-30-Tue  CATEGORY: 武田氏
信玄焼は食べ物や陶器の名称ではない。武田信玄が秩父地方や私の住む深谷辺りの武州の神社、仏閣、民家に火をつけ焼き払った戦法のことである。今川、北条との三国同盟を破棄し、駿河を侵略して、京を目指して西上作戦を展開し始めた信玄は、徳川と織田との戦に備え、背後の北条を釘付けにしておく必要があった。利根川から西の西上野は信玄が支配していたが、武州は北条の支配下にあった。信玄は5回にわたり、秩父を侵攻するが、目立った軍事行動はとらず、専ら、「信玄焼」を執拗に実施した。戦争になると、自軍の兵力の損失も覚悟せねばならず、西上作戦を考えると少しでも兵力を温存したい。しかも焼き払う行為は民衆に大いなる脅威を与え、地域を守る北条方にとっても容易ならざる事態が発生する。秩父神社など名だたる神社や寺院に対する信玄焼は百件に達するという。もちろん民家も焼き払われている。反抗した地元の豪族は、武田軍に討ち滅ぼされている。地元の人たちの信玄焼への恐怖感は並大抵ではなかった。
 2008年12月6日の朝日新聞埼玉県版に「戦国期の城跡か 小鹿野 武田軍侵略時の避難所?」の見出しの記事が載る。12月28日、その見学会が実施され参加する。発見者であり地元の歴史研究家の説明と現地案内がある。標高310mの狭い稜線上に、上幅6m深さ1.5mと上幅2mと深さは浅い2箇所の堀切、20m×5m、20m×6mの二ヵ所の平場がある。小さな城郭である。発見者は「永禄十二年から元亀二年にわたる甲斐武田氏による秩父侵攻に伴ういわゆる信玄焼(放火・略奪・人さらいなどを含む軍事行動)の被害を避けるために造られた避難施設の砦」という仮説を立てる。中世の主要道から離れ、目立たない場所にある。文献などは無いが、地元の人ならではの推定であろう。小鹿野両谷城(おがのりょうがいじょう)と名付けた(写真11第2堀切と第2曲輪
)。


      足埋まる落葉踏みゆく砦跡
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