
武田信玄の秩父侵攻は、宮前氏の論文によると、駿河、相模、甲斐の三国同盟が破綻し、再び相模と甲斐の同盟が締結されるまでの3年間に五回行われ、信玄自身が布陣したのは一回だった。しかし秩父小鹿野町の信玄焼から逃れるたまの「隠し砦」小鹿野両谷城祉のすぐ近くに、奈倉館跡がある。永禄十三(1570)年に武田軍がここに居住する奈倉氏を滅ぼしたと伝わる。永禄十三年の秩父侵攻は宮前氏の論文にもなく、また古文書などの史料にも見当たらない。秩父地方の寺社のうち信玄焼を受けた場所は100箇所を越すというから相当な猛威を振るったことが分かる。記録にはなくても、少人数なら雁坂越えでも甲斐から侵攻できたし、西上野は既に信玄の支配下にあったので至近距離にあり、五回を越える侵攻があっても不思議ではない。館跡には高さ50cmから150cm、長さ70mの石塁が残り、赤平川の崖に通ずる虎口がある。(写真)
奈倉氏は秩父氏一族で、畠山重忠と同族である。秩父氏館のあった吉田小学校はここから3kmほどの場所にあり、奈倉加賀守行家(1459ー1552)がここに館を築き移り住み、重家、重則と三代居住したが永禄十三(1570)年に武田軍との戦で重則が討死して奈倉氏は滅ぶ。
石垣の枯野に残る居館跡
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