私の故郷は山梨である。幼い頃、戦国随一の強固な軍団や信玄堤などの民政を大人たちは話してくれた。サラリーマンとなり、各地の武田一族の史跡を訪ね、その歴史と浪漫を探る紀行文である。
風林火山の旗 海を渡る
信玄の秩父侵攻
2009-02-02-Mon  CATEGORY: 武田氏
25名倉館虎口
武田信玄の秩父侵攻は、宮前氏の論文によると、駿河、相模、甲斐の三国同盟が破綻し、再び相模と甲斐の同盟が締結されるまでの3年間に五回行われ、信玄自身が布陣したのは一回だった。しかし秩父小鹿野町の信玄焼から逃れるたまの「隠し砦」小鹿野両谷城祉のすぐ近くに、奈倉館跡がある。永禄十三(1570)年に武田軍がここに居住する奈倉氏を滅ぼしたと伝わる。永禄十三年の秩父侵攻は宮前氏の論文にもなく、また古文書などの史料にも見当たらない。秩父地方の寺社のうち信玄焼を受けた場所は100箇所を越すというから相当な猛威を振るったことが分かる。記録にはなくても、少人数なら雁坂越えでも甲斐から侵攻できたし、西上野は既に信玄の支配下にあったので至近距離にあり、五回を越える侵攻があっても不思議ではない。館跡には高さ50cmから150cm、長さ70mの石塁が残り、赤平川の崖に通ずる虎口がある。(写真)
 奈倉氏は秩父氏一族で、畠山重忠と同族である。秩父氏館のあった吉田小学校はここから3kmほどの場所にあり、奈倉加賀守行家(1459ー1552)がここに館を築き移り住み、重家、重則と三代居住したが永禄十三(1570)年に武田軍との戦で重則が討死して奈倉氏は滅ぶ。


      石垣の枯野に残る居館跡

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