
4月21日、私は会津若松に旅をし、飯盛山を訪れる。16歳から17歳の少年たちの、周辺の武家屋敷が焼けるのを見て鶴ケ城炎上と思い込み自刃した現場に立つと胸を締め付けられる思いがする。白虎隊は343名で編成され、戦死者33名、自刃20名、生存者290名と、隊士の15%が落命した。20名の自刃の隊士中、飯沼定吉は短刀で喉を突いたが死に切れず印出新蔵の妻ハツに助けられ蘇生する。後に仙台で逓信省技師となり逓信事業に貢献した。白虎隊については生涯語ることなく、特定の史家に残した実録によって後世にその悲劇を伝えた。白虎隊だけではない。娘子軍隊長中野竹子は得意の薙刀を振るい奮戦したが倒れ、妹の手により介錯されて果てた。籠城婦人隊の山本八重は砲術を駆使し防戦し、生き延び、後に新島譲夫人となり近代日本婦人の先駆けと言われた。家老西郷頼母の妻八重子は子女が戦闘の足手まといになってはならないと考え、母、子女らと自刃した。女性たちも夫々、忠誠を尽くした。
飯盛山に、「忠孝両全碑」が建つ。武田信玄の息女の見性院に育てられた保科正之が信濃の高遠から、山形を経て会津に入り、徳川宗家に対する「絶対忠節」「文武両道」「尊王愛国」を会津藩の伝統精神と定め、幕末の戊辰戦争までその精神が浸透していたことが「会津戊辰戦争」で理解できる。
下野街道に、保科正之が参勤交代で江戸に向かう途中立ち寄り、昼食をとった本陣が復元されていた(写真)。
白虎隊自刃せし地に桜散る
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