私の故郷は山梨である。幼い頃、戦国随一の強固な軍団や信玄堤などの民政を大人たちは話してくれた。サラリーマンとなり、各地の武田一族の史跡を訪ね、その歴史と浪漫を探る紀行文である。
風林火山の旗 海を渡る
穴山梅雪の墓
2009-10-13-Tue  CATEGORY: 武田氏
8月21日、武田氏研究会「夏草道中」で京都の京田辺市にある穴山梅雪の墓を訪ねる。共同墓地の中に五輪塔があるが、正確には五輪塔の「火輪」の代わりに宝篋印塔の「笠」が載る両者を合わせた墓石である(写真)。梅雪は武田氏の親類衆として信玄の時代、大いに活躍するが、勝頼の代になり武田家が衰退すると信長、家康と密かに通じ、天正10(1578)年2月、織田・徳川軍による武田領侵攻が始まると、同25日には甲府に居た正室見性院と嫡男勝千代を脱出させ勝頼を離反する。甲斐は混乱に陥り、勝頼は3月11日に滅亡する。織田家臣となった梅雪はお礼に家康とともに、5月15日安土城に信長を訪れた。信長は明智光秀にその接待役を命じ、豪勢な接待を行った。6月2日に信長と合流し茶会を催すことになり、その間各地を遊覧し、5月29日に堺に入る。6月2日早暁、本能寺の変が起きる。この変を知った家康と梅雪は急遽帰途につく。家康と別の道を選んだ梅雪一行は落人狩りの標的にされ落命する。享年42歳であった。現地の看板資料によると、梅雪は田辺町内で殺害され、地元の人たちにより手厚くここに葬られた。
 梅雪の正室は武田信玄三女の見性院で、二代将軍秀忠の三男幸松丸を育てた。後に幕臣として、また会津藩祖として名君の誉れの高い保科正之である。墓は埼玉東浦和の清泰寺にある。夭折した勝千代の墓は山梨の下山町円蔵院、穴山家の菩提寺万福寺は韮崎にある。いずれにも私は墓参し、梅雪一族には心を尽くしたことになる。
      

                 079穴山梅雪の墓
空蝉の宿る五輪の塔崩れ
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