
5月12、13、14日、佐渡を旅し、佐渡金山を訪れる。佐渡金山は平成元年までの約四百年間で産金量78トン、銀2300トン、銅5400トンの日本最大の金銀山である。江戸時代には天領として幕府の財政を支えた。天領となる前は上杉氏、その前は本間氏の所領であった。天領となり佐渡奉行所が相川に置かれ、初代奉行として大久保長安が鶴子銀山から相川の奉行所に陣屋を移し本格的な開発を行う。私たちは宗太夫間歩の蟻の巣のような坑道の一部を散策する。現在、奉行所が復元されているが(写真)精錬所を持つ我が国唯一の奉行所であった。長安は金鉱開発とともに、鉱山都市相川の建設や流通などの仕組みを構築し飛躍的に産金量を伸ばした。この長安は甲斐武田信玄に仕えた猿楽師でありながら蔵前衆として治水、農政、鉱山開発で敏腕を振るった。武田家滅亡後、家康に仕え
佐渡金山奉行、石見金山奉行となり後に老中にまで昇進する。佐渡に能楽が広まったのは流刑された世阿弥の影響もあるが、長安が猿楽師を連れて来て広めたことが大きい。私たちが泊まった相川のホテルの近くにも、長安の寄進した春日神社に能舞台がある。全島に能舞台が30余今もあり、保存会の人たちにより薪能などが開催されている。
長安の後の鎮目惟明は名奉行として知られている。長安没後衰退した金山を復興させた。車窓から下相川吹上浦の浜に眠る自然石塔婆を見る。鎮目は甲斐春日居の生まれで武田氏家臣であった。後に家康に仕えて関が原の戦いに秀忠の陣につき、真田攻めの7本槍の一人である。
日蓮は遠流により50歳から53歳まで佐渡で過ごし、鎌倉に戻った後、甲斐武田氏一族南部氏の庇護で身延山を開山し日蓮宗総本山とする。身延山で54歳から8年過ごし61歳で入寂する。私たちは根本寺、妙照寺、実相寺を廻る。
佐渡に、甲斐武田氏の関連人物三人が存在し、私の旅をより印象的にしてくれた。
新樹燃ゆ佐渡金山の四百年

私は5月13日、佐渡島の妙宣寺を訪れる。ここに直江兼続の寄進した鑓が庫裏に展示されていた(写真)。穂先の長さ80cm、幅3cmの穂先である。豊臣秀吉から佐渡金山の支配を命じられた上杉景勝は、天正17(1589)年直江兼続に命じて佐渡制圧を行う。佐渡島中央部西側の真野湾にある沢根港に上陸した上杉軍は、河原田城を攻略した後南進して島の南端の羽茂城を落とし佐渡を制圧する。この時直続は妙宣寺を雑太城に移し鑓を奉納したのである。直続が制圧するまで佐渡は上杉氏の支配下には無く、豪族の本間氏が内乱状態にありながら治めていた。以後慶長五(1600)年までの約10年間、上杉氏の家臣が佐渡を支配した。従って謙信の時代、景勝のある時期までは佐渡は上杉氏の支配下には無かったのである。
信長に対抗するために、景勝は武田勝頼の支援を得るために領土の一部と多量の黄金を献じ、同盟を結んだのであるが、その多量の金は、私はてっきり佐渡金山で採掘したと思っていた。しかし上杉が佐渡を支配したのは1589年であり、勝頼が同盟を結んだのは1578年で武田氏が滅んだのは1582年なので、上杉の佐渡支配以前の話である。あの献じた黄金は佐渡金山ではなく、越後のどこかの金山から産出したことが判った。佐渡金山が支配下に無かった時の多額の出費は簡単でなかったことを思うと、景勝の武田氏との同盟の決断は相当重かったに違いない。
夏草や離島に土塁残りたり




