私の故郷は山梨である。幼い頃、戦国随一の強固な軍団や信玄堤などの民政を大人たちは話してくれた。サラリーマンとなり、各地の武田一族の史跡を訪ね、その歴史と浪漫を探る紀行文である。
風林火山の旗 海を渡る
佐渡金山と甲斐武田氏
2009-05-27-Wed  CATEGORY: 武田氏
072佐渡金山
5月12、13、14日、佐渡を旅し、佐渡金山を訪れる。佐渡金山は平成元年までの約四百年間で産金量78トン、銀2300トン、銅5400トンの日本最大の金銀山である。江戸時代には天領として幕府の財政を支えた。天領となる前は上杉氏、その前は本間氏の所領であった。天領となり佐渡奉行所が相川に置かれ、初代奉行として大久保長安が鶴子銀山から相川の奉行所に陣屋を移し本格的な開発を行う。私たちは宗太夫間歩の蟻の巣のような坑道の一部を散策する。現在、奉行所が復元されているが(写真)精錬所を持つ我が国唯一の奉行所であった。長安は金鉱開発とともに、鉱山都市相川の建設や流通などの仕組みを構築し飛躍的に産金量を伸ばした。この長安は甲斐武田信玄に仕えた猿楽師でありながら蔵前衆として治水、農政、鉱山開発で敏腕を振るった。武田家滅亡後、家康に仕え
佐渡金山奉行、石見金山奉行となり後に老中にまで昇進する。佐渡に能楽が広まったのは流刑された世阿弥の影響もあるが、長安が猿楽師を連れて来て広めたことが大きい。私たちが泊まった相川のホテルの近くにも、長安の寄進した春日神社に能舞台がある。全島に能舞台が30余今もあり、保存会の人たちにより薪能などが開催されている。
 長安の後の鎮目惟明は名奉行として知られている。長安没後衰退した金山を復興させた。車窓から下相川吹上浦の浜に眠る自然石塔婆を見る。鎮目は甲斐春日居の生まれで武田氏家臣であった。後に家康に仕えて関が原の戦いに秀忠の陣につき、真田攻めの7本槍の一人である。
 日蓮は遠流により50歳から53歳まで佐渡で過ごし、鎌倉に戻った後、甲斐武田氏一族南部氏の庇護で身延山を開山し日蓮宗総本山とする。身延山で54歳から8年過ごし61歳で入寂する。私たちは根本寺、妙照寺、実相寺を廻る。
 佐渡に、甲斐武田氏の関連人物三人が存在し、私の旅をより印象的にしてくれた。
            
                  新樹燃ゆ佐渡金山の四百年
ページトップへ  トラックバック0 コメント0
佐渡島と直江兼続
2009-05-16-Sat  CATEGORY: 武田氏
142妙宣寺
私は5月13日、佐渡島の妙宣寺を訪れる。ここに直江兼続の寄進した鑓が庫裏に展示されていた(写真)。穂先の長さ80cm、幅3cmの穂先である。豊臣秀吉から佐渡金山の支配を命じられた上杉景勝は、天正17(1589)年直江兼続に命じて佐渡制圧を行う。佐渡島中央部西側の真野湾にある沢根港に上陸した上杉軍は、河原田城を攻略した後南進して島の南端の羽茂城を落とし佐渡を制圧する。この時直続は妙宣寺を雑太城に移し鑓を奉納したのである。直続が制圧するまで佐渡は上杉氏の支配下には無く、豪族の本間氏が内乱状態にありながら治めていた。以後慶長五(1600)年までの約10年間、上杉氏の家臣が佐渡を支配した。従って謙信の時代、景勝のある時期までは佐渡は上杉氏の支配下には無かったのである。
 信長に対抗するために、景勝は武田勝頼の支援を得るために領土の一部と多量の黄金を献じ、同盟を結んだのであるが、その多量の金は、私はてっきり佐渡金山で採掘したと思っていた。しかし上杉が佐渡を支配したのは1589年であり、勝頼が同盟を結んだのは1578年で武田氏が滅んだのは1582年なので、上杉の佐渡支配以前の話である。あの献じた黄金は佐渡金山ではなく、越後のどこかの金山から産出したことが判った。佐渡金山が支配下に無かった時の多額の出費は簡単でなかったことを思うと、景勝の武田氏との同盟の決断は相当重かったに違いない。

            夏草や離島に土塁残りたり
ページトップへ  トラックバック0 コメント0
武田信玄と上杉謙信
2009-05-07-Thu  CATEGORY: 武田氏
042信清の墓
4月20日私は米沢を訪れる。越後の上杉景勝が秀吉への功績で会津若松120万石を拝領する。しかし景勝は関が原の戦いで石田三成の西軍に就いたため徳川家康から米沢30万石に減封されるが、米沢で明治に到るまで上杉家は続く。米沢駅には大河ドラマの影響もあり、直江兼続の人形や紹介資料が展示されている。満開の桜の米沢城には上杉神社や春日神社、謙信や鷹山の像などがある。米沢の小学校には必ず謙信と鷹山の肖像画が掲げられているという。上杉廟所には謙信を初代とし、二代景勝以下十二代の藩主の墓が並ぶ。鷹山は米沢上杉十代になる。林泉寺には上杉家臣などの墓がある。
直江兼続とお船の墓が並んでいる。魚津城で戦死した吉江宗信の墓もある。
 そして武田信玄の息女で上杉景勝正室菊姫、甲州夫人の堂々とした墓がある。彼女は上杉家臣からも敬愛され、夫人の立場から諸費倹約を奨励した。武田信清の墓、五輪塔がある。高さ2.6mの立派な塔で、各輪に一字づつ「祖師西来意」の5文字が刻まれている。信清は信玄の6男で菊姫の弟である。武田家滅亡の後、菊姫を頼り、上杉景勝に仕えた。墓石の前面の供台に大きく武田菱が刻まれている(写真)。上杉一族や家臣の墓のある林泉寺に、武田菱を見て、信玄と謙信はお互いに良きライバルでありながら尊敬しあっていたに違いないと、私は思った。
  

    夕闇に辛夷咲きをるローカル線


ページトップへ  トラックバック0 コメント0
越後を揺さぶる武田信玄
2009-04-25-Sat  CATEGORY: 武田氏
4月19日、南魚沼市(旧六日町)にある雲洞庵を訪れる。「雲洞庵の土踏んだか」で有名な寺で、参道石畳の下に数千巻のお経が埋めてあり、参道を歩くことにより御利益が授かると言う。
 また雲洞庵は上杉景勝と直江兼続が幼少の頃学問を学んだ場所であり、二人の師である住職の通天存達は景勝の父長尾政景の兄、景勝の叔父である。兼続の兜の前立の「愛」の文字は、この通天存達の教えによる。近くには上田長尾氏の居城の坂戸城があり、上杉景勝、直江兼続生誕碑や長尾政景の墓がある。
 雲洞院の宝物殿に入ると、信玄の花押のある書状(写真)の展示があり、越後に「信玄」を発見した私は感激する。私は参道を歩いたことにより御利益を授かる幸せを得たのだ。書状は、雲洞寺末寺として信玄が佐久に建立した龍雲寺の住職に宛てた開山を祝う内容である。住職もここから佐久に移った。信玄は雲洞庵と結ぶことにより、上杉謙信の強力な対抗者である長尾政景とよしみを通じたのであった。謙信の立場に立ってみると、眼には見えず膝元が崩れることのなるので恐ろしい陰謀であったに違いない。いかにも信玄らしい外交戦略である。旅は予想もしなかったことを教えてくれる。
       
             愛と義の武将の城や山桜032雲洞庵
ページトップへ  トラックバック0 コメント0
秩父金山と武田金山衆
2009-03-29-Sun  CATEGORY: 武田氏
DSCN4233.jpg
3月8日、秩父市地方庁舎で「秩父金山と武田金山衆」の講演を聴く。講師は山梨県身延町湯野之奥金山博物館長谷口氏である。ここで言う秩父金山は股野沢金山のことで、秩父市大滝から甲武信岳に向かい8時間ほど入った奥秩父山中にある。昨年10月、第一回股野沢金山の調査が行われ、坑道や石臼の出土品(写真)が発見された。この股野沢金山は山梨県塩山の武田信玄開発の黒川金山と深い係わり合いがある。黒川金山の産金の減少に伴って多くの金山衆は里へ下り帰農したが、一部は信州梓村、川端下、丹波山砂金山などへ移住し、金の採掘を続けた。黒川金山に最後まで残りその再興を試みていた最後の残党は、初めは黒川金山の周辺で試掘していたが最後に股野沢金山にたどり着いた。ここで3年間採掘したが寛永12(1635)年に採掘指し止めになる。その後、2度にわたり採掘願いを申請するもかなわず、塩山の高橋一之瀬に移住したという。現在風に言うならば、リストラに遭った技術者たちが、新しい職場を求めたのが股野沢金山であり、そこもlやがて発掘禁止となり、農業を営み生計を立てたということになる。時代の流れの中の生き様を見る股野沢金山である。
ページトップへ  トラックバック0 コメント0
<< 2009/11 >>
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 - - - - -


余白 Copyright © 2005 風林火山の旗 海を渡る. all rights reserved.