私の故郷は山梨である。幼い頃、戦国随一の強固な軍団や信玄堤などの民政を大人たちは話してくれた。サラリーマンとなり、各地の武田一族の史跡を訪ね、その歴史と浪漫を探る紀行文である。
風林火山の旗 海を渡る
白虎隊と保科正之
2009-07-22-Wed  CATEGORY: 武田氏
050大内宿
4月21日、私は会津若松に旅をし、飯盛山を訪れる。16歳から17歳の少年たちの、周辺の武家屋敷が焼けるのを見て鶴ケ城炎上と思い込み自刃した現場に立つと胸を締め付けられる思いがする。白虎隊は343名で編成され、戦死者33名、自刃20名、生存者290名と、隊士の15%が落命した。20名の自刃の隊士中、飯沼定吉は短刀で喉を突いたが死に切れず印出新蔵の妻ハツに助けられ蘇生する。後に仙台で逓信省技師となり逓信事業に貢献した。白虎隊については生涯語ることなく、特定の史家に残した実録によって後世にその悲劇を伝えた。白虎隊だけではない。娘子軍隊長中野竹子は得意の薙刀を振るい奮戦したが倒れ、妹の手により介錯されて果てた。籠城婦人隊の山本八重は砲術を駆使し防戦し、生き延び、後に新島譲夫人となり近代日本婦人の先駆けと言われた。家老西郷頼母の妻八重子は子女が戦闘の足手まといになってはならないと考え、母、子女らと自刃した。女性たちも夫々、忠誠を尽くした。
飯盛山に、「忠孝両全碑」が建つ。武田信玄の息女の見性院に育てられた保科正之が信濃の高遠から、山形を経て会津に入り、徳川宗家に対する「絶対忠節」「文武両道」「尊王愛国」を会津藩の伝統精神と定め、幕末の戊辰戦争までその精神が浸透していたことが「会津戊辰戦争」で理解できる。
下野街道に、保科正之が参勤交代で江戸に向かう途中立ち寄り、昼食をとった本陣が復元されていた(写真)。
        
     白虎隊自刃せし地に桜散る
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甲斐武田氏と大菩薩峠の机龍之介
2009-06-29-Mon  CATEGORY: 武田氏
14耀武館
5月4日私は秩父郡小鹿野町の甲源一刀流逸見氏練武道場「耀武館」を訪れる(写真)。甲源は甲斐源氏の略である。秩父逸見氏の祖先は清和天皇6世の子新羅三郎義光で、代々甲斐に住んでいたが、大永年間(1521−28)に十世逸見若狭守義綱がこの地に移住した。十九世逸見太四郎義年が剣の技を磨き、甲源一刀流と名付け開祖となる。現在の逸見氏26世の御当主は、また甲源一刀流剣術九世に当り、道場主として少年剣士を育てている。義網が大永年間に秩父に入ったのは、武田信虎が石和川田館から甲府躑躅ケ崎に居館を移したことによる諍いによると伝わる。道場の近くに逸見氏の菩提寺高源院があり、御住職にお聞きすると、武田氏制札などの武田氏関連の寺伝が少なくないし、逸見氏一族も秩父地方を中心に多く分散して居住しているという。
 江戸時代から続く道場には、竹刀で突かれた窪みが板壁に残り、当時の稽古の激しさを知る。多くの剣豪も生み出し、最盛期には三千人を超す門弟が関東各地で活躍していた。資料館にはその歴史を示す資料の中に、片岡知恵蔵が机龍之介を演じる大菩薩峠の映画のポスターがある。机龍之介のモデルはここ耀武館の高弟をモデルにし龍之介の「音なしの構え」は甲源一刀流であった。

      
    新緑の秩父に見つけし甲斐源氏
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阿修羅展
2009-06-03-Wed  CATEGORY: 美術
DSCN5405.jpg
>/strong>6月2日国立博物館平成館で、阿修羅展を観る(写真)。1時間以上の待ち時間の情報を得ていたので開館前に着き、御蔭で苦痛を感じるほどの「渋滞」も無く入る。第一章は興福寺須弥壇から出土した遺物で、蝶や花をあしらった白銅の鏡、直径が40cmもある金銅大盤の中央には「上」という文字がはっきり読み取れる。銅錫鉛合金製の響銅盤がある。千三百年も昔に合金技術があり薄い容器に模様をつけた鋳造技術があったことは驚きである。水晶念珠、水晶丸玉、黄・黄緑・青緑・褐色のガラス碁石形玉、瑪瑙念珠、水晶六角柱などの精緻な加工技術にも驚く。私の「驚き」の中に、千三百年も昔には出来るはずがないという現代人の驕りがある。見方によっては人類はさほど進歩していないとも云えるように思えた。
 第二章は八部衆と十代弟子の立像がズラリと並ぶ。何れも734年の作である。八部衆のひとつが国宝阿修羅像で、別室のスポット照明の中に立つ。何故か判らぬが、私は込み上げる気持ちを抑えきれず涙ぐむ。感動!眉間を寄せた少年の先を見つめる眼、人間そのものの表情、草履を履いている足、耳で繋がる3つの顔と6本の手に何の不自然さもない。像を見つめていると周囲の大混雑の観衆は消え、私と少年の世界となる。阿修羅像は後に孝謙天皇となる16歳だった安倍内親王か、聖武天皇の少年の姿と重ねた記事を読んだが、その高貴さは納得する。私はこれほどの作品に作者が示されていないことに気付いた。他の八部衆、十大弟子立像にも作者名が無い。
 第三章は鎌倉時代作の四天王像には運慶の弟子康慶の作と記されているし、運慶作の釈迦如来頭部もある。四天王は何れも鎌倉時代らしい剛健な立像である。
 日本人の創造性の素晴らしさに感銘し、誇りを持って会場を出る。その足で都美術館の「日本の美術館名品展」220点を観るが、ピカソ、ミレー、モネ、黒田清輝、岸田劉生、小磯良平、藤田嗣治らの名画も阿修羅の少年の前ではかすんでしまったのである。
 

阿修羅来て上野の森に夏きざす













 
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佐渡金山と甲斐武田氏
2009-05-27-Wed  CATEGORY: 武田氏
072佐渡金山
5月12、13、14日、佐渡を旅し、佐渡金山を訪れる。佐渡金山は平成元年までの約四百年間で産金量78トン、銀2300トン、銅5400トンの日本最大の金銀山である。江戸時代には天領として幕府の財政を支えた。天領となる前は上杉氏、その前は本間氏の所領であった。天領となり佐渡奉行所が相川に置かれ、初代奉行として大久保長安が鶴子銀山から相川の奉行所に陣屋を移し本格的な開発を行う。私たちは宗太夫間歩の蟻の巣のような坑道の一部を散策する。現在、奉行所が復元されているが(写真)精錬所を持つ我が国唯一の奉行所であった。長安は金鉱開発とともに、鉱山都市相川の建設や流通などの仕組みを構築し飛躍的に産金量を伸ばした。この長安は甲斐武田信玄に仕えた猿楽師でありながら蔵前衆として治水、農政、鉱山開発で敏腕を振るった。武田家滅亡後、家康に仕え
佐渡金山奉行、石見金山奉行となり後に老中にまで昇進する。佐渡に能楽が広まったのは流刑された世阿弥の影響もあるが、長安が猿楽師を連れて来て広めたことが大きい。私たちが泊まった相川のホテルの近くにも、長安の寄進した春日神社に能舞台がある。全島に能舞台が30余今もあり、保存会の人たちにより薪能などが開催されている。
 長安の後の鎮目惟明は名奉行として知られている。長安没後衰退した金山を復興させた。車窓から下相川吹上浦の浜に眠る自然石塔婆を見る。鎮目は甲斐春日居の生まれで武田氏家臣であった。後に家康に仕えて関が原の戦いに秀忠の陣につき、真田攻めの7本槍の一人である。
 日蓮は遠流により50歳から53歳まで佐渡で過ごし、鎌倉に戻った後、甲斐武田氏一族南部氏の庇護で身延山を開山し日蓮宗総本山とする。身延山で54歳から8年過ごし61歳で入寂する。私たちは根本寺、妙照寺、実相寺を廻る。
 佐渡に、甲斐武田氏の関連人物三人が存在し、私の旅をより印象的にしてくれた。
            
                  新樹燃ゆ佐渡金山の四百年
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佐渡島と直江兼続
2009-05-16-Sat  CATEGORY: 武田氏
142妙宣寺
私は5月13日、佐渡島の妙宣寺を訪れる。ここに直江兼続の寄進した鑓が庫裏に展示されていた(写真)。穂先の長さ80cm、幅3cmの穂先である。豊臣秀吉から佐渡金山の支配を命じられた上杉景勝は、天正17(1589)年直江兼続に命じて佐渡制圧を行う。佐渡島中央部西側の真野湾にある沢根港に上陸した上杉軍は、河原田城を攻略した後南進して島の南端の羽茂城を落とし佐渡を制圧する。この時直続は妙宣寺を雑太城に移し鑓を奉納したのである。直続が制圧するまで佐渡は上杉氏の支配下には無く、豪族の本間氏が内乱状態にありながら治めていた。以後慶長五(1600)年までの約10年間、上杉氏の家臣が佐渡を支配した。従って謙信の時代、景勝のある時期までは佐渡は上杉氏の支配下には無かったのである。
 信長に対抗するために、景勝は武田勝頼の支援を得るために領土の一部と多量の黄金を献じ、同盟を結んだのであるが、その多量の金は、私はてっきり佐渡金山で採掘したと思っていた。しかし上杉が佐渡を支配したのは1589年であり、勝頼が同盟を結んだのは1578年で武田氏が滅んだのは1582年なので、上杉の佐渡支配以前の話である。あの献じた黄金は佐渡金山ではなく、越後のどこかの金山から産出したことが判った。佐渡金山が支配下に無かった時の多額の出費は簡単でなかったことを思うと、景勝の武田氏との同盟の決断は相当重かったに違いない。

            夏草や離島に土塁残りたり
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