4月19日、南魚沼市(旧六日町)にある雲洞庵を訪れる。「雲洞庵の土踏んだか」で有名な寺で、参道石畳の下に数千巻のお経が埋めてあり、参道を歩くことにより御利益が授かると言う。
また雲洞庵は上杉景勝と直江兼続が幼少の頃学問を学んだ場所であり、二人の師である住職の通天存達は景勝の父長尾政景の兄、景勝の叔父である。兼続の兜の前立の「愛」の文字は、この通天存達の教えによる。近くには上田長尾氏の居城の坂戸城があり、上杉景勝、直江兼続生誕碑や長尾政景の墓がある。
雲洞院の宝物殿に入ると、信玄の花押のある書状(写真)の展示があり、越後に「信玄」を発見した私は感激する。私は参道を歩いたことにより御利益を授かる幸せを得たのだ。書状は、雲洞寺末寺として信玄が佐久に建立した龍雲寺の住職に宛てた開山を祝う内容である。住職もここから佐久に移った。信玄は雲洞庵と結ぶことにより、上杉謙信の強力な対抗者である長尾政景とよしみを通じたのであった。謙信の立場に立ってみると、眼には見えず膝元が崩れることのなるので恐ろしい陰謀であったに違いない。いかにも信玄らしい外交戦略である。旅は予想もしなかったことを教えてくれる。
愛と義の武将の城や山桜
また雲洞庵は上杉景勝と直江兼続が幼少の頃学問を学んだ場所であり、二人の師である住職の通天存達は景勝の父長尾政景の兄、景勝の叔父である。兼続の兜の前立の「愛」の文字は、この通天存達の教えによる。近くには上田長尾氏の居城の坂戸城があり、上杉景勝、直江兼続生誕碑や長尾政景の墓がある。
雲洞院の宝物殿に入ると、信玄の花押のある書状(写真)の展示があり、越後に「信玄」を発見した私は感激する。私は参道を歩いたことにより御利益を授かる幸せを得たのだ。書状は、雲洞寺末寺として信玄が佐久に建立した龍雲寺の住職に宛てた開山を祝う内容である。住職もここから佐久に移った。信玄は雲洞庵と結ぶことにより、上杉謙信の強力な対抗者である長尾政景とよしみを通じたのであった。謙信の立場に立ってみると、眼には見えず膝元が崩れることのなるので恐ろしい陰謀であったに違いない。いかにも信玄らしい外交戦略である。旅は予想もしなかったことを教えてくれる。
愛と義の武将の城や山桜


3月8日、秩父市地方庁舎で「秩父金山と武田金山衆」の講演を聴く。講師は山梨県身延町湯野之奥金山博物館長谷口氏である。ここで言う秩父金山は股野沢金山のことで、秩父市大滝から甲武信岳に向かい8時間ほど入った奥秩父山中にある。昨年10月、第一回股野沢金山の調査が行われ、坑道や石臼の出土品(写真)が発見された。この股野沢金山は山梨県塩山の武田信玄開発の黒川金山と深い係わり合いがある。黒川金山の産金の減少に伴って多くの金山衆は里へ下り帰農したが、一部は信州梓村、川端下、丹波山砂金山などへ移住し、金の採掘を続けた。黒川金山に最後まで残りその再興を試みていた最後の残党は、初めは黒川金山の周辺で試掘していたが最後に股野沢金山にたどり着いた。ここで3年間採掘したが寛永12(1635)年に採掘指し止めになる。その後、2度にわたり採掘願いを申請するもかなわず、塩山の高橋一之瀬に移住したという。現在風に言うならば、リストラに遭った技術者たちが、新しい職場を求めたのが股野沢金山であり、そこもlやがて発掘禁止となり、農業を営み生計を立てたということになる。時代の流れの中の生き様を見る股野沢金山である。
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2月26日東京国立博物館平成館で開山無相大師650年遠諱記念妙心寺特別展を観る。妙心寺および関連する寺院などが所蔵する219点の木像、肖像画 墨蹟、具足、屏風絵、襖絵、狩野元信の壁画など第一級品が陳列されている。国宝も日本最古(698年)の梵鐘と足利義持に重用された如拙筆の瓢鮎図(写真)の2点があり重要文化財も多数ある。白隠慧鶴筆の達磨像(写真)がある。歴史上の人物の登場も面白い。後伏見天皇宸感韓消息、豊臣棄丸(秀吉と淀の子で3歳で夭折)像、棄丸所用の玩具船や童具足、蒲生氏郷が送った守り刀、石田正継(三成の父)像、奥平信昌夫人(家康長女亀姫)像、伊達政宗夫妻像、春日局(家光の乳母)座像など枚挙に暇がない。その中で私が注目したのは、高い品格の中に鋭い眼差しの快川紹喜像とその墨蹟である。快川は武田信玄が美濃(岐阜県)から招いて甲斐塩山の恵林寺の住職とした高僧である。恵林寺は信玄の開基で信玄の墓があり、武田氏滅亡の折、信長に攻められ、恵林寺山門の炎の中で快川が「心頭滅却すれば・・」の言葉を残し焼身したことはよく知られている。南化玄興像がある。南化和尚は快川和尚の後を継いで恵林寺に入った妙心寺58世である。鉄山宗鈍像がある。鉄山和尚は恵林寺で出家して妙心寺の第80世となり武田、今川、徳川家の帰依を受け、武蔵平林寺を復興させて中興開山の祖となる。私は謎のひとつが解けた気がした。かなり前に訪ねた新座市の平林寺に武田信玄の娘の見性院の供養塔があったが、正式な墓は東浦和の清泰寺にあり、その存在理由がわからなかった。今回の展示を観て、武田信玄ー快川和尚ー恵林寺ー鉄山和尚ー平林寺の流れから多分鉄山和尚の配慮で平林寺に見性院の供養塔が建立されたと私は確信した。美術鑑賞に訪れたのだが、歴史の世界にも引き込まれた。寺院は美術館であり、博物館である。素晴らしい。

2月26日東京国立博物館平成館で開山無相大師650年遠諱記念妙心寺特別展を観る。妙心寺および関連する寺院などが所蔵する219点の木像、肖像画 墨蹟、具足、屏風絵、襖絵、狩野元信の壁画など第一級品が陳列されている。国宝も日本最古(698年)の梵鐘と足利義持に重用された如拙筆の瓢鮎図(写真)の2点があり重要文化財も多数ある。白隠慧鶴筆の達磨像(写真)がある。歴史上の人物の登場も面白い。後伏見天皇宸感韓消息、豊臣棄丸(秀吉と淀の子で3歳で夭折)像、棄丸所用の玩具船や童具足、蒲生氏郷が送った守り刀、石田正継(三成の父)像、奥平信昌夫人(家康長女亀姫)像、伊達政宗夫妻像、春日局(家光の乳母)座像など枚挙に暇がない。その中で私が注目したのは、高い品格の中に鋭い眼差しの快川紹喜像とその墨蹟である。快川は武田信玄が美濃(岐阜県)から招いて甲斐塩山の恵林寺の住職とした高僧である。恵林寺は信玄の開基で信玄の墓があり、武田氏滅亡の折、信長に攻められ、恵林寺山門の炎の中で快川が「心頭滅却すれば・・」の言葉を残し焼身したことはよく知られている。南化玄興像がある。南化和尚は快川和尚の後を継いで恵林寺に入った妙心寺58世である。鉄山宗鈍像がある。鉄山和尚は恵林寺で出家して妙心寺の第80世となり武田、今川、徳川家の帰依を受け、武蔵平林寺を復興させて中興開山の祖となる。私は謎のひとつが解けた気がした。かなり前に訪ねた新座市の平林寺に武田信玄の娘の見性院の供養塔があったが、正式な墓は東浦和の清泰寺にあり、その存在理由がわからなかった。今回の展示を観て、武田信玄ー快川和尚ー恵林寺ー鉄山和尚ー平林寺の流れから多分鉄山和尚の配慮で平林寺に見性院の供養塔が建立されたと私は確信した。美術鑑賞に訪れたのだが、歴史の世界にも引き込まれた。寺院は美術館であり、博物館である。素晴らしい。

全部で108点の展示を観賞すると、加山又造の好奇心、躍動感、斬新さ、革新性、新旧技術の駆使を、迫力をもって肌に感じる。マテイスなどのキュウビズムにも近く、これが日本画かと思わせながらも、やはり間違いなく日本画であることを納得する。底流には日本人としての感性がある。







