私の故郷は山梨である。幼い頃、戦国随一の強固な軍団や信玄堤などの民政を大人たちは話してくれた。サラリーマンとなり、各地の武田一族の史跡を訪ね、その歴史と浪漫を探る紀行文である。
風林火山の旗 海を渡る
武田信玄と上杉謙信
2009-05-07-Thu  CATEGORY: 武田氏
042信清の墓
4月20日私は米沢を訪れる。越後の上杉景勝が秀吉への功績で会津若松120万石を拝領する。しかし景勝は関が原の戦いで石田三成の西軍に就いたため徳川家康から米沢30万石に減封されるが、米沢で明治に到るまで上杉家は続く。米沢駅には大河ドラマの影響もあり、直江兼続の人形や紹介資料が展示されている。満開の桜の米沢城には上杉神社や春日神社、謙信や鷹山の像などがある。米沢の小学校には必ず謙信と鷹山の肖像画が掲げられているという。上杉廟所には謙信を初代とし、二代景勝以下十二代の藩主の墓が並ぶ。鷹山は米沢上杉十代になる。林泉寺には上杉家臣などの墓がある。
直江兼続とお船の墓が並んでいる。魚津城で戦死した吉江宗信の墓もある。
 そして武田信玄の息女で上杉景勝正室菊姫、甲州夫人の堂々とした墓がある。彼女は上杉家臣からも敬愛され、夫人の立場から諸費倹約を奨励した。武田信清の墓、五輪塔がある。高さ2.6mの立派な塔で、各輪に一字づつ「祖師西来意」の5文字が刻まれている。信清は信玄の6男で菊姫の弟である。武田家滅亡の後、菊姫を頼り、上杉景勝に仕えた。墓石の前面の供台に大きく武田菱が刻まれている(写真)。上杉一族や家臣の墓のある林泉寺に、武田菱を見て、信玄と謙信はお互いに良きライバルでありながら尊敬しあっていたに違いないと、私は思った。
  

    夕闇に辛夷咲きをるローカル線


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越後を揺さぶる武田信玄
2009-04-25-Sat  CATEGORY: 武田氏
4月19日、南魚沼市(旧六日町)にある雲洞庵を訪れる。「雲洞庵の土踏んだか」で有名な寺で、参道石畳の下に数千巻のお経が埋めてあり、参道を歩くことにより御利益が授かると言う。
 また雲洞庵は上杉景勝と直江兼続が幼少の頃学問を学んだ場所であり、二人の師である住職の通天存達は景勝の父長尾政景の兄、景勝の叔父である。兼続の兜の前立の「愛」の文字は、この通天存達の教えによる。近くには上田長尾氏の居城の坂戸城があり、上杉景勝、直江兼続生誕碑や長尾政景の墓がある。
 雲洞院の宝物殿に入ると、信玄の花押のある書状(写真)の展示があり、越後に「信玄」を発見した私は感激する。私は参道を歩いたことにより御利益を授かる幸せを得たのだ。書状は、雲洞寺末寺として信玄が佐久に建立した龍雲寺の住職に宛てた開山を祝う内容である。住職もここから佐久に移った。信玄は雲洞庵と結ぶことにより、上杉謙信の強力な対抗者である長尾政景とよしみを通じたのであった。謙信の立場に立ってみると、眼には見えず膝元が崩れることのなるので恐ろしい陰謀であったに違いない。いかにも信玄らしい外交戦略である。旅は予想もしなかったことを教えてくれる。
       
             愛と義の武将の城や山桜032雲洞庵
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秩父金山と武田金山衆
2009-03-29-Sun  CATEGORY: 武田氏
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3月8日、秩父市地方庁舎で「秩父金山と武田金山衆」の講演を聴く。講師は山梨県身延町湯野之奥金山博物館長谷口氏である。ここで言う秩父金山は股野沢金山のことで、秩父市大滝から甲武信岳に向かい8時間ほど入った奥秩父山中にある。昨年10月、第一回股野沢金山の調査が行われ、坑道や石臼の出土品(写真)が発見された。この股野沢金山は山梨県塩山の武田信玄開発の黒川金山と深い係わり合いがある。黒川金山の産金の減少に伴って多くの金山衆は里へ下り帰農したが、一部は信州梓村、川端下、丹波山砂金山などへ移住し、金の採掘を続けた。黒川金山に最後まで残りその再興を試みていた最後の残党は、初めは黒川金山の周辺で試掘していたが最後に股野沢金山にたどり着いた。ここで3年間採掘したが寛永12(1635)年に採掘指し止めになる。その後、2度にわたり採掘願いを申請するもかなわず、塩山の高橋一之瀬に移住したという。現在風に言うならば、リストラに遭った技術者たちが、新しい職場を求めたのが股野沢金山であり、そこもlやがて発掘禁止となり、農業を営み生計を立てたということになる。時代の流れの中の生き様を見る股野沢金山である。
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妙心寺特別展と武田信玄
2009-03-10-Tue  CATEGORY: 武田氏
style="color:#ffff00">="_blank">達磨像・瓢鯰図
2月26日東京国立博物館平成館で開山無相大師650年遠諱記念妙心寺特別展を観る。妙心寺および関連する寺院などが所蔵する219点の木像、肖像画 墨蹟、具足、屏風絵、襖絵、狩野元信の壁画など第一級品が陳列されている。国宝も日本最古(698年)の梵鐘と足利義持に重用された如拙筆の瓢鮎図(写真)の2点があり重要文化財も多数ある。白隠慧鶴筆の達磨像(写真)がある。歴史上の人物の登場も面白い。後伏見天皇宸感韓消息、豊臣棄丸(秀吉と淀の子で3歳で夭折)像、棄丸所用の玩具船や童具足、蒲生氏郷が送った守り刀、石田正継(三成の父)像、奥平信昌夫人(家康長女亀姫)像、伊達政宗夫妻像、春日局(家光の乳母)座像など枚挙に暇がない。その中で私が注目したのは、高い品格の中に鋭い眼差しの快川紹喜像とその墨蹟である。快川は武田信玄が美濃(岐阜県)から招いて甲斐塩山の恵林寺の住職とした高僧である。恵林寺は信玄の開基で信玄の墓があり、武田氏滅亡の折、信長に攻められ、恵林寺山門の炎の中で快川が「心頭滅却すれば・・」の言葉を残し焼身したことはよく知られている。南化玄興像がある。南化和尚は快川和尚の後を継いで恵林寺に入った妙心寺58世である。鉄山宗鈍像がある。鉄山和尚は恵林寺で出家して妙心寺の第80世となり武田、今川、徳川家の帰依を受け、武蔵平林寺を復興させて中興開山の祖となる。私は謎のひとつが解けた気がした。かなり前に訪ねた新座市の平林寺に武田信玄の娘の見性院の供養塔があったが、正式な墓は東浦和の清泰寺にあり、その存在理由がわからなかった。今回の展示を観て、武田信玄ー快川和尚ー恵林寺ー鉄山和尚ー平林寺の流れから多分鉄山和尚の配慮で平林寺に見性院の供養塔が建立されたと私は確信した。美術鑑賞に訪れたのだが、歴史の世界にも引き込まれた。寺院は美術館であり、博物館である。素晴らしい。
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加山又造の世界
2009-02-28-Sat  CATEGORY: 美術
冬・春秋波濤
2月26日、新国立美術館で日本画家、加山又造(1927−2004)の展覧会を観る。エントランスには「雪」「月」「花」の大作三部作が並ぶ。「花」は左側に夜桜、右側に炎柱が突き抜け桜花をうっすらと染めている。第一章「動物たち、あるいは生きる悲しみー様式化の試み」の部屋には、ラスコー洞窟壁画を参考にした「原始時代」、ブリューゲルの「雪中の狩人」の影響を受けた「冬」(写真上)。第二章「時間と空間を超えてー無限の宇宙を求めて」には中央に桜満開の山を、近景に紅葉山という二季節を描いた「春秋波濤」(写真下)。第三章「線描の裸婦たちー永遠のエロテイシズム」には散る桜の無重力空間を舞う4人の裸婦の「はなびら」と「はなふぶき」。第四章「花鳥画の世界ーいのちのかたち」には左から右に爛漫と咲き誇る桜花と右端に篝火を描いた神秘的雰囲気の「夜桜」。第五章「水墨画ー色彩を超えた色」には写実的な波濤の中にその一瞬が永遠に続くような静寂と波の生命感が溢れた「月光波濤」は私が最も魅せられた作品である。第六章「生活の中に生きる美」には陶器の絵付け、着物の絵付け、祇園祭山鉾南観音山綴織の原画、「新潮」の表紙絵、宝飾デザイン、羽子板などが展示されている。展示されてないが、何とCGでの絵も発表するという多彩な作家である。
 全部で108点の展示を観賞すると、加山又造の好奇心、躍動感、斬新さ、革新性、新旧技術の駆使を、迫力をもって肌に感じる。マテイスなどのキュウビズムにも近く、これが日本画かと思わせながらも、やはり間違いなく日本画であることを納得する。底流には日本人としての感性がある。
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